ぼそっと

つぶやいてみる。(一週間も放置した末にかなりつまんないこと書くよ、悪いけど。笑)

・・・あのねえ。「報道」という名のワイドショーが多すぎなんだよ。

何のつもりか知らんけども、ナビゲーターもコメンテーターも感情的にものを言い過ぎ。



「いじめられた側がいじめと感じたら、それはいじめなんですよ!」

・・・いい年した大人が本気でそんなこと思ってるんだろうか。というか、そんな言葉で全てをまとめてしまうことの危険性を認識してるんだろうか。・・・認識してたら言えるわけないよなぁ・・・。真意はどうだったにせよ、公の場では慎重に言葉を選ぶべきだよ。

しかも、これと同じ趣旨のセリフを放ったナビゲーターやコメンテーターは1人や2人じゃないし、一放送局だけの話でもないところがすごい。ナビゲーターやコメンテーターが個人的にそう考えるのは勝手かも知らんけど(いや、正直大人としてその認識はどうなのって感じだけど)、そんなことを堂々と、さも正義であるかのようにあっちでもこっちでも公共の電波で垂れ流してるってことはだよ。そう考えてる大人が実際世の中に多いし、子供も子供なりにそれを(都合良く)解釈(=勘違い)してる可能性大、ってことだよねぇ。

いじめの事実は否定しないし、自殺してしまった子や実際にいじめにあってる子は気の毒だなぁと思うよ(ここはあえて「気の毒」。なんでもかんでも「可哀想」だけで括ってしまうのは正しい分析や原因の追求を否定するのと一緒だから)。それに報道だけが悪いなんて全然思ってないし。でもねぇ、こういう情報が蔓延すると、「自分に都合の悪いことは何もかもいじめ」=自分は悪くない=周りが全部悪い ・・・と勘違いの連鎖を起こす子供も正直少なくないんじゃないかね。

だってね、ハッキリ言ってそういう大人、すでに多くありませんか。

①「いじめられた側がいじめと感じたら、それはいじめなんですよ!」
②「キミ独身なんだねって、そんなこと部長には関係ありません!セクハラ発言です!」
③「カロリー高いなんて書いてなかったから、毎日食べて太っちゃったじゃないの!」

シチュエーションにもよりますが、これらの発想は本質的に一緒だと思うんですよ。
つまり 自分が不愉快と感じた=被害 という公式です。③の場合は、例え自分に過失があっても 自分にとって何かしらの損失があった=被害 というアメリカの訴訟みたいな誤認識。 

そして今まで私が見たこういう思考タイプの方は大抵、一度不快と感じたらそれ以上は相手の真意やこのような結果に至った原因を考えることを一切しようとしません。そうなると第三者の冷静な意見も一切拒否します。相手に他意はなかったかも知れないとか原因を作ったのは自分かもしれないなんて考えもしません。その人にとっては「自分が不快な思いをした」ということだけが全ての事実になってしまう。そして自分が絶対的に正しいと信じて疑わない。その結果がこれらの発言に集約されていると思います。

だいたいね、もしもこの公式を本当に公平に用いるならハッキリ言って②なんか逆に部長へのセクハラですよ?(笑)。思うにそのOLは影で部長のことを「あのハゲ」とか言っているに違いありませんし・・・ヽ( ´_ゝ`)丿
・・・とブラックな冗談はさておいても、この公式は実際「人権」の名を借りて随分世にはびこっていると思います。「個人の権利」と「自己中心」を勘違いしている典型的なパターンです。自分の不快指数が高まると「人権侵害」を叫ぶ人、結構あちこちで見かけます。

以前何から何まで自分が被害者な女性の話を延々と聞いていて、彼女が明らかにこういう思考の持ち主だったのでやんわりと「そうか~、私がそういうことになったらどうするかなぁ。相手がそういう態度なのはもしかしたら自分にも原因があるかもしれないって、一応は考えてみるかなあ・・・?」と試しに言ってみたところ、彼女はさも怪訝な顔で「えっ、どうして自分が悪いかもなんてネガティブな考え方するの!?わたしならもっとポジティブに考えるよ!」。
・・・・・・・彼女の中ではどうやら「自らを省みること=ネガティブ」らしいです。・・・・・・ああ、そりゃあなたはたいそうポジティブだろうさ・・・・・・orz

ちょっと話はそれたけど、勘違いも行きつくところまで行くとこうなるって話で。
(もっとも、その時の彼女は躁鬱とか本当に心の病だったかもしれません。そうなると私の対応は全く不適切だったわけで、大いに反省しなければいけないのは私の方かもしれません。)

「いじめられた側がいじめと感じたら、それはいじめ」。個々の事例を見ていくとそう言い切れるものもあるかもしれないですよ。でもだからって、全てのトラブルがそうであるなんてことは絶対にあり得ない。実際に起こっているいじめの実態が深刻であるからこそ、全てをそんな安易な言葉で縛ってはいけないと思うのです。それは「いじめた」側の発言の真意であったり、「いじめ」のおきた背景・原因を追求すること何もかもを、そう言い切った時点で全て放棄することになるからです。別にいじめっ子を擁護するつもりなんか毛頭ありませんし、ましていじめられた子に「お前にも原因がある」なんて言いたい訳ではありません。ただ、日々起こる多くの事件なり事例なりを全てひっくるめて同じ言葉で括ってしまうことは、事実を正しく認識しようとすることを放棄或いは阻害する行為だと思うのです。実際のところ本人の意思に関わらず多かれ少なかれ与えられた情報に感化され主観も入る上に、そもそもが人によって「真実」の捕らえ方自体も異なるから、極論を言えば「正しい共通認識」なんて不可能っちゃ不可能なわけですけれども。

でもだからこそ、そうした発言を一方的に正義と決め付けて報道しちゃうのはどうなんだろうって話なんですよ。事件であれ何であれ、主観的に批判したり断罪したりむやみに憶測で語ることはもとより報道の役目ではないし、プロならば「人間らしさ」という名の主観の押し付けと報道の役割とを混同してはいけないと思うわけで。良いの悪いのあーでもないこーでもないは情報を受け取る側が考えることであって、それだって当事者にしかわからないことがある以上、断罪する権利なんか第三者には無いんですから。
討論番組やナビゲーターのキャラをあえてウリにした(ワイド)ショーなら個々の発言が主観的だろうが何だろうがどうでもいいよ。いろんな人間かき集めて持論をぶつけ合えばいいんだから。でも報道は違うだろ、と。個人的にはワイドショーだって、変な正義感にすぐ感化される人も山ほどいることを思い出して見るのもうんざりな番組が多すぎ。・・・で、消去法の末、結局気付くとかけているTV番組はいつもNHKニュースになっちゃったりするんですが。じゃ見なきゃいいだろって端的な話もあるけども、それじゃ議論もできないので。笑

あ、あとね、人間同士のトラブルが起きた時に「今回のことは全部自分が悪いんだ」って安易に自分を全否定するのも本質的にこれと同じ。一見真逆のようだけども、「全部相手が悪い」っていうのと「全部自分が悪い」っていうのは結局何も解決する気がないって意味で同じだと思うんです。全部自分が悪いことにしちゃえばもう何もしなくていいからね。結果的にそれ以上原因も解決手段も何も考えようとしない行為だから、ある意味ラクな逃げ方と言えなくもない。つまり最も都合の良い言い訳になりかねないんですよ。同じ意味で、校長先生やら問題を起こした企業や組織のトップやらが本当に「責任感が強い」というのなら、尚のこと自殺なんかしちゃいかんのだよ。命が大切だから自殺するな、などという次元の問題じゃない。「全て私が悪いんです」と言っておきながら全ての重荷を人に押し付けて逃げるな、ということにつきると。

と、ここまで書いて、時間を見つつ非公開でまとめているつもりが、編集過程も全てダダ洩れだったことに気付くmidori_design(34歳)。ご、ごめん・・・orz

もうここまで書いちゃったついでに言うと、報道でも何でも大人から子供まで「平等な権利」とか言い過ぎ。例えば生きる為に一生懸命努力や苦労を積み重ねてる人とそうでない人とが平等な扱いされちゃ、頑張ってる人が気の毒だと思うわけで。正確に言えば、人として生まれたという意味では基本的に平等であるべきと思うけれども、それと「全ての人が対等」であることとは根本的に違うんだよね。
何が言いたいって、それなりに人生経験を積んで来た先生と生徒とは人として平等でこそすれ、決して「対等」な立場ではないということ。同じ意味で、親と子が「対等」であるというのは非常にアンバランスなものを感じるんです。だから昨今の「友達親子」みたいな関係が私にはある意味ちょっと疑問。親は親であって子の友達ではないよ。子は、親に生んでもらって養ってもらってるんです。それなのに親(先生)も子供も対等だなんて安易に誰もが口にするから、その意味を誤って理解した親子や先生が家庭でも学校でも社会でも正常な関係が築けなくなってるんじゃなかろうかとわたしゃ思うよ。封建社会じゃないから親や先生が絶対なんて言わないけどね。だけども、子供にはできない自活・積み重ねた経験と言う意味だけでも、敬意を払われるべき存在なんじゃなかろうか。

いやね、そりゃ親や先生の中にも問題のある人はいるさ。でもそんなの今に始まったことじゃないし、そもそも問題ゼロの人なんかいないし。凸凹入り乱れているのが自然な姿だからこそ、そういう「社会」を理解していくんじゃないの。そういう負の部分も全部ひっくるめて自分と社会との関係を築く方法を模索するんでしょ。自分にとって不快な人・都合の悪い人や物事を初めから全否定して排除しようとしたり、そういう環境がすでに幼少から用意されちゃってる事実が、少なからず人間関係のアンバランスさを生む一要因になっているのではないかしら。

そもそも初めから人は平等でなんかあり得ないし、それを否定してはいけないと思う。その事実を認識しようとしないのは根本的に何も解決しようとしないのと一緒です。どの子も横一線なんてことはあり得ないし、もっと言えばあっちゃいけない。ってかクローンじゃないんだから。もしそんなに完全なる平等がいいってんなら、「個性を尊重」なんて主張はできないでしょ。それぞれの個性を正当に評価したら平等になんかなるわけがないんだもの。それぞれの「違い」を認めた上で、コミュニケーションによってその関係をどうバランスとるか、ってことが大事なんじゃないの。だって現にある「違い」に目を瞑って「あなたとあの子は同じなのよ」なんて言ってたら、ひずみが出るのは当然でしょ。だいたいね、口では平等って言いながら、進学や他の子との差別化のために塾やら習い事やら必死にさせてるんじゃ意味わかんないでしょ。

念のため補足ね。平等でない=差別 とすぐに直結させるのは正しい理解ではありません。「差別」と「区別」は本質的に違うのに、それをごっちゃにしてるからいろんな問題が複雑になり過ぎているんだと思います。何でもかんでも「それは差別だ」という思考が蔓延したから変な「平等意識」が出てきて、果ては「ゆとり教育」なんてものが出来てきたんでないかしら。同時に「個性の尊重」とか必要以上に騒いで。ついでに個性と言う名のもとに生徒の(つまりもとは親の)ワガママまでもが尊重されちゃってるわけじゃない。そもそも初めから矛盾を内包していたわけだから、そら崩壊もするわってわたしゃ思うんですけどどうかねぇ。

・・・うっ、自分の思考の整理のつもりだったのに結局垂れ流しちゃってるあたり、正直スマン・・・
こうして「ここに自分が書く」ことの意味も改めてちょっと考えてしまうね。もとより批判を受けるのは覚悟の上なんだけども。

あー きっと何年かあとにこの文章見て 「こんなこと書いてたのかオレ(汁)」 って顔から火ィ出るんだろうなぁ・・・
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by midori_design | 2006-11-30 13:02 | ツブ焼き